菊池さん
知る人ぞ知る装丁家・菊池信義氏は樹の花がオープンした日から毎朝欠かさずいらっしゃるお客様。
開店時間をやや過ぎた頃来店し、ちらりとカウンターの中を見て「おはよう」と言いながらドア横に置いてある日経新聞を手にとってカウンターの一番奥のイスに座る。
私も「おはようございます」と軽く会釈をし、珈琲豆を挽く。そしてそれを菊池さん専用のウェッジウッドのカップに注いてお出しする。
この時、菊池さんから求められていることはただ1つ。
「毎朝、同じ味のコーヒーを出すこと」
早番のTさんが樹の花を辞めることになり、この大役を私が担うことになったのは働きだしてから3ヶ月が経とうとしている頃のことだった。
嫌だった。プレッシャーで胃が痛くなった。
豆は同じでも、挽き方は同じでも、珈琲は煎れる人が違うと全く味が変わる。
しかも精神状態が不安定な私が煎れる珈琲の味はなかなか安定しなかった。叔母や菊池さん、珈琲の味にうるさい方にはそれがすぐにばれる。
どうしたら美味しい珈琲を煎れられるんだろう?
来る日も来る日も悩んだ。
樹の花では、お客様に珈琲をお出しする前に必ず試飲をする。
味に不満があれば、その場でその珈琲を捨て、もう一度煎れ直す。カウンターに座っているお客様の前でこれをするのはプロとしてとても恥ずかしい行為だ。だが試飲をしておきながら、まずいと感じた珈琲をそのままお出しする方がもっと恥ずかしい。
私は自分が煎れた珈琲の味に、まだ一度も満足していなかった。
だから何度試飲してもお客様に出せず、最後はいつも叔母にバトンタッチ。どんどん自信を無くしていった。
そんな私に菊池さんはとても優しかった。でもとても厳しかった。
「うーん、惜しい。やり直しだな(笑)」
「すみません・・・」
菊池さんに甘え、何度も何度も珈琲を入れ直し、その度に感想をお願いした。600円のフレンチ珈琲をお出しする為に、私はその何倍ものコーヒー豆を捨てていた。
ある朝、いつも通り自分の煎れた珈琲を試飲した。
目が大きく見開いた。
うん?美味しいっ!
すぐにカップに注いで菊池さんにお出しした。
ドキドキドキドキ
菊池さんは新聞から目を離さずに何も言わずに珈琲を飲んだ。
帰り際ちらりと私を見ながら「80点だな」とおっしゃった。
思わず「でしょっ!」とため口をたたいてしまい、慌てて口を押さえた(笑)。
この味を忘れないようにしよう!
珈琲を煎れることがどんどん楽しくなっていった。
菊池さんは朝一番に飲む珈琲で、ご自分の健康状態をチェック
していた。
私の煎れる珈琲の味を信用してくださるようになってからは
珈琲の味がいつもと異なると「最近寝不足だからかな(笑)」とご自分の舌(体調)を疑った。風邪を引かれているときは
「喉が痛いんだ。なにか良いハーブティーはあるかい?」とおっしゃった。
樹の花で働きながら、珈琲とハーブについて必死に学び、その濃艶な香りと奥の深さに魅了されていった。
いつしか私も朝一番に煎れた珈琲の試飲で、自分の健康状態が分かるようになっていた。
最初は毎日が辛くて辛くてたまらなかった。樹の花にいらっしゃるステキなお客様と、自分を比べては落ち込んでいた。
でもいつの頃からか、そういう方々と出会えるこの場所に心から感謝するようになっていた。
いろんな方と出会え、その方々の笑顔を見ることができるウェイトレスの仕事は、自分にとって天職だと感じた。
それなのにバイトが終わると一目散に家に帰って過食する。
現実逃避の為じゃない。ただなんとなくしている気がした。
習い事でもしてみようかなと思った。